京都祇園のコンパニオン派遣 メイクでアルバイトと夢を両立

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京都祇園メイクのコラム

京都 祇園コンパニオン派遣メイクのコラム vol.44

投稿日 :
2019-08-28 00:00:00
カテゴリ :
コラム
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管理者

祇園四条と言えば、京都を代表する観光スポットですね。

ですが、「祇園四条」という地名は存在しません。

正しくは京阪電車の駅名です。

ではなぜ、祇園・四条と呼ばれ、長く親しまれてきたのででしょうか。

今回は知っているようで知らない祇園・四条の歴史についてお伝えしましょう。

 

祇園という地名の由来は?

そもそも祇園と呼ばれる由来はどこにあるでしょうか。

それは、かつて八坂神社が「祇園社」と呼ばれていたことにあるようです。

明治の時代まではこの祇園社は鴨川一帯まで境内で広大な敷地を有していたとか。それでこの界隈が祇園と呼ばれるようになったようです。

 

祇園が今のように京都有数の歓楽街になったのは江戸時代のはじめの頃といわれています。

祇園社にお参りに来る客が大勢いたため、それに伴い多くの茶屋が増えていきました。

茶屋のなかにはより多くの客を呼び込むために着飾った美しい女性を働かせており、そういった茶屋が数多く集まるようになり歓楽街として発展していったようです。

 

江戸時代から明治時代になり時代は文明開化に。

近代化がすすみ、祇園も華やかな繁華街として栄えました。

舞妓さんや芸妓さんがいる祇園甲部あたりは、現在でも古い街並が残っており日本の伝統家屋の置屋やお茶屋、料亭が目にでき、当時の面影を偲ぶことができます。

 

花街で有名な祇園

次は、舞妓さんや芸妓さんたちがどのように誕生したのかをお伝えしましょう。

先ほど、ご紹介したように祇園社に参拝する客を呼び込むために女性が働くようになりました。

茶屋は団子やお茶などを提供していましたが、そのうちお酒や料理も供するようになり、働いていた女性が当時流行していた歌舞伎芝居を模して三味線や踊りなど披露するようになりました。それが舞妓・芸妓のルーツではないかといわれています。

江戸時代の終わりにはお茶屋が500軒、舞妓・芸妓は1000人以上いたそうです。

 

祇園にはふたつの花街があり、京都最大の「祇園甲部」と祇園甲部から分離独立した「祇園東」があります。

花街は「一見さんお断り」というしきたりがあり、初回で遊ぶことはできません。

必ず馴染み客の紹介がないと店に入ることはできません。

これは「イケズ」ではなく、信用を重んじてのことです。

京都花街には独特の支払い法があります。

お茶屋は、例えるなら旅行会社のエージェントのような役割をしており、舞妓さんや芸妓さんの手配、必要なら料理店などを手配し、経費はお茶屋がすべて立て替え、後日清算となっています。ですので、お茶屋はお座敷にあがった客からその日の払いを受け取らないのです。

これは信頼関係がないと成り立たちませんね。これが、「一見さんお断り」の理由のようです。

 

古い格式を重んじる京都花街ですが、舞妓ブームの影響もあり、メディアへの露出やイベントへの参加など本業以外にも舞妓さんが登場するようになっています。

 

この界隈を夕方から夜にかけて歩いていると、お座敷に向う舞妓さんに出合うこともあります。

 

昼間でも、素顔で普段着のきもの姿の舞妓さんを目にすることもあり、京都の街には長い歴史が息づいているんだな〜と感じますね。

 

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